生協の情報システム、空白の10年(1) |
生協の情報システムが抱える今日的課題 第10回 |
今日、生活実感にはほど遠いものの、国内の経済は戦後最長の好景気のただ中にあるらしい。その評価や定義は置くとして、この景気回復以前に、好景気を超える長い不況の時代があったことをみなさんはもはや忘れてしまったわけではないだろう。日本経済にはバブル景気崩壊後、空白の十年といわれる時期があった。いわゆる一九九〇年代のことだ。経済界はこの十年間でバブル期に貯まった負の遺産を身を切りながらはき出して経営体質をより筋肉質のそれに変化させたといわれている。生協はどうだろうか。一九九五年の阪神大震災を境にして生協も厳しい業績に見舞われていき、リストラや事業縮小に追い込まれたところも少なくはない。ほとんどの生協や事業連合が何らかの傷を残して今日に至っている。ただ、この空白の十年は、産業界にとっても再生への十年であったはずなのだが、あえて空白と評されるゆえんは、それまでの日本経済を支えてきた技術力が、アジア諸国を中心に日本を凌駕してしまう時間を与えたことだといわれている。空白の十年の間、レースでいえば日本はビットインしていたわけだ。その間に抜かれてしまうことは想定の範囲内といえるかもしれない。しかし、これから再び筋肉質となった体力とパワーで先行するライバルを追撃にかかればいいわけだ。
しかし、生協はどうだろうか。やや遅れて始まった空白の十年は、不振事業を整理し、人員を整理することはできた。しかし、体質は変化したのだろうか。体質が変化したから業績が向上しているのだろうか。個配の拡大も単に社会全体の好景気に支えられた生活スタイルの変化によるものでしかないのではないか。社会全体は堅実な景気回復を図っている中で、生協はそれに寄りかかっているだけの、再びバブルの夢を見ているだけではないかと危機感を抱いている経営トップは決して少なくないように思える。
わたしがこう主張する背景にあるのが、生協にとっての、一九九五年以降の十数年が情報システムにおける空白の十数年だったという認識からだ。しかも、その空白期間は今現在も続いているといって間違いない。
一九九五年前後の生協の情勢は今日とあまり変化がない。巨大化した生協と巨大な事業連合が各地で増加しつつあり、経営的な不安定さも持ちつつもさらなる発展形をめざしていた。しかし、当然のことながら、そういった脆弱な体質に危機感を持つトップ層は多く、全国共通の生協としての事業モデルの確立とそれをサポートする情報システムの統一が不可欠であるという認識が合意形成されていた。全国を統一できる事業モデルと情報システム、それを実際に実現できる組織をベースに構築するという命題のもとで、日本生協連とユーコープ事業連合、コープこうべの共同プロジェクトが立ち上げられ、三者のシステム要員が中心となって全国の情報システム共同化センター「(株)コープ情報システムセンター(コープISC)」が設立されたのだった。
この共同プロジェクトとコープISCがめざしたものは、それぞれの生協の業務要件や過去の成り立ちといったものに左右されない新しい時代に適応できる事業モデルを構築し、それを情報システムとして実装するというものだ。そして、さまざまな困難を乗り越えて、財務、商品企画、商品調達とサブシステムの実装が進み、店舗システムの構築をすすめようとしている矢先、一九九五年一月一七日未明の阪神大震災が発生した。
コープISCの開発拠点も神戸市内で大打撃を受け、要員の大半がコープこうべのシステム復旧にかり出されたために、プロジェクトは一時中断のやむなきに至った。数ヶ月後にプロジェクトは再開されたが、店舗システムというそれまでと違って現場業務の再構築を必要とする事業モデルの構築で参加組織間の連携がはかれないまま、数年後にプロジェクトは解散し、コープISCもコープこうべ単独の関連会社となって合併の後、その姿を消している。
こうして、生協が陣営を挙げてめざした全国統一の事業モデルと情報システムの構築は、プロジェクト名称C-TOPIA(シートピア)とともに消えてしまったのだ。
(次号に続く)
(コープソリューション 2006年11月号掲載)